こちらのブログ、久しぶりに読み返してみたらもう今と何もかもが違くて、、あの頃私を構成していた細胞はやはりもういないのだなということを考えたりする。

パソコン買った、初めてのMACだけど勝手に変換されたりして使いづらい

関東に戻って働き始めて、好きな人と住み一緒に選挙に行って外食をしている生活なんて本当に想像していなかったが

それでもあの、大学生の頃の、揺れたり戻ったり、塞ぎ込んだり強がっていた頃の自分の文章に救われているよ。

男は男である

私の気持ちを弄んできた男たちは全員シャバい人生しか歩めなくてかわいそう、

って強がりは結局世の中にマトモな男がいない事実に絶望しないための自衛でしかない。

 

何よりそういう男たちも私以外の誰か、

見返りを求めずに優しくしたい女の子がいるんだなと思ってしまう残酷さ。

 

結婚は女を守るための制度と、おかざき真理のサプリの中のセリフであったけれど

付き合う、って約束もそうかもしれないと思う。

24歳、どうしても結婚について考えてしまう。

人生で一番面白い人とする合宿、と言ってた人もいた。

誰かと暮らす生活にはあこがれるけれど、

衝動を抑えて生活できる自信がない。

なにかをしたいと感じたときに、人や土地に縛られたくない、

初恋の悪魔を観て、結婚は犯罪を犯さないためにする、

って言っていたことに納得した。

 

これ以上人間に失望したくない、

何度刺されても新鮮な気持ちを知りたいと思う心を大切にしたい。

 

 

弔う

前の大学で一番仲が良かった子と最後に会ってからもうすぐで一年になる。

その子ともう二度と会えないことを考えて、立ち止まってしまうことが増えた。

 

先日観たDischarming manのライブはちょうど国葬前の週末だった。

俺はもっと弔いたい人がいる、と言っていた蛯名さんの言葉が忘れられない。

一番仲の良かった友人とお別れできなかったやるせなさ、なんでこんなことになってるの、って絶望。

 

ムカつくことが多すぎて、くだらなくて泣きそうで、今日も音楽を浴びてる。

やるせなさ

わかってほしい人にわかってもらえなかったとき、

その人に対する失望と、世の中に対するやるせなさのようなものを感じてしまう。

 

付き合っていた彼氏が、飲み会のネタで私の大切な友人の、

セクシャリティを馬鹿にするようなことを言ったのが許せなくて、

その場で少し否定する、のに加えて、

飲み会がおわったあと彼の家に行き、

感じた違和感を話した。

 

そっか、とうなずいてくれて私は満足していた、

話さずに勝手に相手のことを諦めるなら

伝えて嫌われたほうがまし、と思って、覚悟して。

でもダメだった。

あのときの私はめんどくさかった、と、

友人に話していたらしいことを知ってしまった。

 

その人に対しての失望や怒りはもちろん、だけど、

適当にあしらっていただけだったことや、

人に対する不誠実な姿勢、

この8か月間、私が少しでも信じていたものはなんだったんだろう。

何より恐ろしいのは、世の中はこんな人間で溢れているんだな、

ということで。

我慢してうなずくことが、

理論より協調を求めることが、

美しく生きることよりそんなに大事なのか。

 

10年来の友人に、生きるの大変だね、となだめられた。

こういう人もいる、というのは本当に救いだった。

自ら選んだ人と友達になる、のがすごくいやで、

どうしても分かり合えない人種もいる、

そういう世の中の現実から目を背けていたけれど、

それは自己防衛のために身に付ける強さなのかな。

 

私に見る目がなかった、っていうそういうことになるんだろうか。

それでもあきらめたくない私は欲張りなのか、ロマンチスト過ぎるのか。

 

親密さ

私が人生ベスト級に好きな本が、小山田咲子さんという方の書いた

「えいや!と飛び出すあの一瞬を愛してる」というでして、

この日記もその本に感化されて書いているといっても差し支えない。

 

日々の雑感が、指の隙間から流れて行ってしまうことがわたしはいちばん恐ろしい。

感情を文字にして(あるいは音楽、映像にして)残しておきたいというのは

臆病な印なのかもしれないと思う。

 

小山田咲子さんが亡くなったのと同じ、23歳をいま生きている。

 

ペットの亀と暮らしている。

友達は、多くはないけれど、近くにも、遠いところにもいる。

恋人はいない。数日前に別れた。

 

音楽や映画といった芸術は、自分がそのとき必要としている啓示を与えてくれることがあって、

それは奇跡のような偶然であるとも思う。

その一つが一昨日鑑賞した、濱口竜介監督の「親密さ」であった。

 

ずっと観たい作品であったし、映画館で上映される貴重な機会であったから、

迷わず足を運んで、4時間15分、スクリーンの前でただ座り、

そこで確かに起きていたことを眺めてた。

 

第二部で、一人の女性が恋人と別れるシーンがあるのだけど、

大げさだけれど世界観が違う人、とあってとても納得してしまった。

そして世界観が違うからこそ、言葉で通じ合うのではなく、

触れることが好きだった、と。

あんな人と付き合ってて軽蔑した?なんて、

言いたくなるような人と付き合ってたことわたしにもあるな。

けどその気持ちも肯定して良いのだと気づいて心が軽くなった。

 

誰かを好きという気持ちは共通認識のようで全く違って、

だからこそ取返しのつかないような勘違いが生まれたり、

不意に傷つくことがあるのだと思う。

それでもわたしは好きを言語化して紐解くことに興味がある。

好きという気持ちをどう捉えているのかはその人の人生ですらあると思う。

 

 

寂しさでいらいらしない

久方ぶりにブログを見返したら恋人ができたと書いてあって驚いた。その恋人ともとっくに別れてしまい、ほとほと自分の恋愛の苦手さに嫌気がさしていたところだった。

 

旅行先の地で、知らない人と同じホテルに泊まった。ごはんを食べて酒を飲み、酔っぱらって一緒に寝る。朝になって夢から覚めても手をつないで新幹線で東京に帰り、きちんとしたいと浅はかな願望をもつわたしは浮かれて舞い上がったままつまらない約束を取り付け、冷静になった彼から落とされる。あいまいで、名前のつかない関係は楽だ。関係性に言葉をあてはめて、言葉に関係性を落とし込む必要はない。だけど本当に一対一の真摯な関係であれば必然的に名前がつくのかもしれないし、それはまっとうで健全なのではないか。「きちんとしたい」と願う自分が本当はものすごく周りの目を気にしているのではないか、根本的に、どちらがまっとうで自然なのか、そんなことで悩む自分が嫌になる。レールから外れそうになる自分を必死でなだめ、これで良いのだと言い聞かせる。

 

生活について。新しい土地に引っ越して一か月、ようやく窓に合うカーテンを買い、段ボールの山を横目に生活している。窓が広く、間取りが前の家と似ていて落ち着く。東京に遊びに行き、終電をわざと逃していろいろな人の家に泊まることが増えて、彼らの家を見るたびにやっぱり東京で生活することはできないかもなあと思う。風呂とトイレは別が良いし、ガスコンロは二つほしい。生活について、考えて選択するときが近づいている。

 

ひとりで遊ぶのが好きでひとりでいるときの自分しか好きになれないのに、寂しくていらいらする自分が嫌になってしまう。ツイッターをみてふたりぶんのごはんに落ち込むことも、インスタをみて同じ窓からの景色に悲しくなることも。

昨日、ロメールの飛行士の妻をみた。どうしようもなくて泣いてしまう、弱さを見せてしまう相手のことを愛せない、アンヌのそんな性に共感してしまったが、それは他人からは女としての浅ましさとして写るのだろう。泣きながら、自覚的に付き合っていくしかない。アンヌは愛することと同棲は別といっていた。わたしもそう考えてしまう未来が見えた。恋愛における運命性について。あるいは努力で関係を続けることについて。

 

多摩センター

恋人ができた、多分、おそらく。

ずるいこと言ってしまったけど、ずるい関係でいる事も嫌だった。誰かと特別な関係をもつっていうのは面倒な関係も引き受けることなのかもしれないと思う。無神経なことを言わないように。やさしくいれるように。今度こそは、次こそは…

久しぶりに会った人、ずっとこの人のこと好きなんだろうなと思った。その人とは友達にしかなれなくて、そうすることで半永久的な関係でいられることを言い訳にしてしまう。ボソボソと喋る声が。笑い方が。静かな人が好きだと思う。この人とずっと仲良くいるために彼と恋人になったのかもしれないと思ってしまう。ずるい。本当にずるいけど私の人生には恋があった方が楽しいとも思う。


12月30日の記事