寂しさでいらいらしない

久方ぶりにブログを見返したら恋人ができたと書いてあって驚いた。その恋人ともとっくに別れてしまい、ほとほと自分の恋愛の苦手さに嫌気がさしていたところだった。

 

旅行先の地で、知らない人と同じホテルに泊まった。ごはんを食べて酒を飲み、酔っぱらって一緒に寝る。朝になって夢から覚めても手をつないで新幹線で東京に帰り、きちんとしたいと浅はかな願望をもつわたしは浮かれて舞い上がったままつまらない約束を取り付け、冷静になった彼から落とされる。あいまいで、名前のつかない関係は楽だ。関係性に言葉をあてはめて、言葉に関係性を落とし込む必要はない。だけど本当に一対一の真摯な関係であれば必然的に名前がつくのかもしれないし、それはまっとうで健全なのではないか。「きちんとしたい」と願う自分が本当はものすごく周りの目を気にしているのではないか、根本的に、どちらがまっとうで自然なのか、そんなことで悩む自分が嫌になる。レールから外れそうになる自分を必死でなだめ、これで良いのだと言い聞かせる。

 

生活について。新しい土地に引っ越して一か月、ようやく窓に合うカーテンを買い、段ボールの山を横目に生活している。窓が広く、間取りが前の家と似ていて落ち着く。東京に遊びに行き、終電をわざと逃していろいろな人の家に泊まることが増えて、彼らの家を見るたびにやっぱり東京で生活することはできないかもなあと思う。風呂とトイレは別が良いし、ガスコンロは二つほしい。生活について、考えて選択するときが近づいている。

 

ひとりで遊ぶのが好きでひとりでいるときの自分しか好きになれないのに、寂しくていらいらする自分が嫌になってしまう。ツイッターをみてふたりぶんのごはんに落ち込むことも、インスタをみて同じ窓からの景色に悲しくなることも。

昨日、ロメールの飛行士の妻をみた。どうしようもなくて泣いてしまう、弱さを見せてしまう相手のことを愛せない、アンヌのそんな性に共感してしまったが、それは他人からは女としての浅ましさとして写るのだろう。泣きながら、自覚的に付き合っていくしかない。アンヌは愛することと同棲は別といっていた。わたしもそう考えてしまう未来が見えた。恋愛における運命性について。あるいは努力で関係を続けることについて。