フィルムカメラで撮った写真を半年に一回くらい現像するともう会えない(会いたくない)人や動物やなくなってしまった場所が写っている。映画や写真が好きなのは言葉にできない感情が尊いものであると知っているからだし何も考えていないふりをしてみんなに好かれたいと私だって思う。けどいなくなってしまった友人の弔い方をずっと考えていてわたしにとってのそれは文章かもしれないと思った。慣習的なお別れが叶わないくらいみんなあまりに悲しかった。わたしはその場所がきっと人より苦手でわからない。最愛の祖父の葬儀にも一人だけ文章で参加した。

わたしたちどこにも属さず群れずにすっと最高でいられるねと確かめ合うように仲良くできた、殆ど恋に近い思いを抱いていた友人が突然いなくなってしまってから約一年がたって、これからの人生でわたしたちが私たちであることを理由にどんな出来事があったとしても、馴れ合わず懐かず強く静かに生きる彼女とぶらりと会って話して、自分の好きな自分で生きていけると信じていた私は、当然のように正気でいられるはずもなく、彼女が選別にくれた湯呑みとお箸で何かを食べて生きてることに、涙が溢れる日々だった。毎日一緒にお昼を食べていながらお互いのインスタを知らないとことか、そういう捻た部分で共鳴し合えた彼女が世界を絶ったことに、未だにエゴに似た絶望を感じている。何かしてあげられたことがあると思うかもしれないけど他人にはどうすることもできない領域が人には必ずある、と母親に言われたのは慰めか、諦めか。まさにズーイが言うところの、「ときどきここにごろりと寝転んで、そのまま静かに死んでしまいたくなる」ような気分になる。確かに悔いていることがあるのも原因でそれはいまだに誰にも言えない。会って話すことがすべてだと強く思う。